Société Franco-Japonaise de Biologie

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日仏生物学会の歴史

日仏生物学会の成立と日仏生物学交流

八杉 貞雄
日仏生物学会 前会長

(この歴史は、2008年9月26日に開催された、日仏交流150周年記念「日仏関連学会シンポジウム 日仏学術交流のルネッサンス」において発表された「日仏生物学会の成立と日仏学術交流」の講演要旨を採録したものである)

日仏生物学会は、1932年に、日仏関連学会としては最初に設立された。学会誌Bulletin de la Société Franco-Japonaise de Biologie誌の60周年記念号に、水野丈夫前学会長が書かれた歴史 (1) などを参考に、今日までの学会の歩みと日仏生物学交流を振り返ってみたい。また、学会と関連のある研究者によるフランス生物学との交流の例について紹介したい。

【1】学会の成立と第2次世界大戦までの歴史

学会の成立は、1929年に当時日仏会館館長であった植物生理学者Louis Blaringhem教授が、東京大学伝染病研究所の長輿又郎、佐藤秀三両教授と諮って、日仏両国の生物学交流のための組織を作ろうとしたことがきっかけである。1932年に、会館の研究員として来日した植物学者Jean Motte博士が、長輿、佐藤両教授らと相談の上、同年10月4日に日仏生物学会が発足した。このときには、日仏医科会(現在の日仏医学会)の設立にも尽力された、三浦謹之助教授も援助された。学会はパリの生物学会(Société de Biologie)の支部(fliale)であると規定された。すなわち当初からフランスの生物学会とは密接な関係をもって発足したことになる。現在はフランス生物学会の「連盟学会(Société associée)」である。
長輿又郎教授(1878-1941)は、長與専斎の子で、東京帝国大学医科大学を卒業、ドイツに留学、帰国後東京帝国大学の病理学教室を主宰された。伝染病研究所長、医学部長を歴任の後東京大学総長を務めた。
学会は発足当初から、年数回の例会(学術集会)を中心に運営されたが、その詳細については記録が欠如している。いずれにしても、第二次世界大戦の勃発まで学会は活発に活動していた。大戦の末期にはさすがに例会も開かれなくなり、学会もしばらくは自然休会を余儀なくされた。

【2】戦後から現在までの歩み

学会は戦争終結からまもなく再開された。このとき、第二代会長として力を尽くされたのは、やはり伝染病研究所長であった長谷川秀治教授であり、また副会長として長野泰一博士がこれを補佐した。このときの事情について長野教授は後にこう書いておられる (2) 。

「第2次世界大戦中、日仏生物学会は影をひそめていた。戦後、復興させようと思って私はキュリー研究所の放射線生物学者、P. B. Maury氏に相談した。同氏は柔道の高段者で、確かヨーロッパ柔道連盟の会長だった。兼ねてから親日家であった彼はすぐ賛同してくれた。日仏双方で行動を始めた。会長には東大、伝染病研究所長、長谷川秀治氏にお願いした。同氏はフランスと特別縁がふかいわけではなかったが、寛大で、またお顔の広い人だったのでお願いした。気軽に引き受けてくれた。学会の日常の運営は我々に委せ切りで、我々の力ではどうにもならない事が起こった時だけ力を貸してくださった。(略)」

学会は、1955 年に学会誌、日仏生物学会誌Bulletin de la Société Franco-japonaise de Biologieを発刊した。編集幹事は、東京大学理学部長で、植物生理学者の服部靜夫教授であった。学会誌は、会員等による総説、フランスで発表された論文の抄訳を主な内容とした。抄録の作成は幹事が分担して行い、現在のようにあらゆる雑誌の要旨が容易に手に入らなかった時代にあって、フランスの生物学の動向を知るよい手がかりとなった。学会誌は、1970年(16巻)に一次休刊となった。
学会は、時には年数回の例会をもち、1973年には第100回の例会を記念して祝賀懇親会が開催された。「設立より41年であり、戦争中の長い休会を数えれば、100回を数える例会を支えてこられた方々の熱意に頭が下がる思いである」 (1)。
学会が大きな変革を遂げたのは、1977年に長野教授が会長に就任したときである。長野会長は藤原公策総務幹事(東京大学農学部教授)とともに、学会の発展に寄与された。その一つは、1977年に学会誌を復刊させたことである。このときは東京大学理学部の水野丈夫教授に編集幹事を委嘱され、水野教授は、それまでのスタイルを維持しつつも、例会の要旨を掲載するなど、会員の発表意欲を高める工夫をされた。なお、このころ例会で発表された論文の多くは、フランス語に翻訳してフランス生物学会誌Comptes Rendus des Séances de la Société de Biologieに送付された。これは同誌にSéance de la Société Franco-japonaise de Biologieというタイトルのもとに、掲載された。なお、フランスの文献抄訳は、インターネットの発達と共に、容易に検索ができるようになったので、廃止された。
長野会長は、日仏の生物学交流にも熱意を持たれ、とくに1982年には、日本の生物学者の最新の業績をフランスに紹介するために”Travaux Récents en Biologie au Japon”を編纂され、フランスに送られた。これについても長野教授は上述の学会誌にこう書いておられる (2)。「日本の生物学の業績はフランスではあまり知られていない傾向があったので、過去30年間の業績のうち秀れたもの20 編をえらび、フランス語に抄訳して一冊の本にまとめてフランスの各方面へ送呈した。かなり反響があったが、フランス側も主な業績の概要を日本語で述べた冊子を作ってほしいという要望には答えてくれなかった。之は今でも残念に思っている。」
1992年に学会は創立60周年を祝った。この年は学会誌を60周年特別号とし、水野会長 (1)、O. Ansart 日仏会館フランス学長 (3)、J. Polonovskiフランス生物学会会長 (4)、F. Chapeville仏日生物協会会長 (5)、長野泰一会員 (2) が、それぞれ祝辞や学会の歴史について寄稿された。このように、日仏生物学会とフランス側のフランス生物学会とは密接な連携関係にあった。さらに1998年にはフランス生物学会の設立150周年が、当時新装なったCollège de Franceで開催され、日本からは青山裕彦会員と八杉が祝賀行事に参加した。この記念式典に際してフランス生物学会はそのComptes RendusにLa biologie, l’Homme et l’Ethique à l’aube de XXIème siècleという特集号を組んだ。その目次を見ると、J. Picard会長の挨拶についで、水野会長 (6)、藤原公策幹事 (7)、岸田綱太郎会員 (8) からの寄稿が並んでいて、その後にノーベル賞受賞のF. Jacob教授のGénétique et politiqueという論文 (9)が掲載されている。外国からの寄稿に敬意を払ってくれたということであろうが、両国の生物学会が深く結びついていたことを示す一例として、ご紹介した。またこの号には日本の生物学会例会の発表論文も8編掲載されている。
このほか、学会としては1998年の日本におけるフランス年に因んだ日仏諸学会総合シンポジウムにおいて藤原幹事が生物学会の歴史等について講演され、また日仏関連学会の理工系8学会が毎年開催するシンポジウムに参加し、また会館を通じて募集される日仏学者交換事業にも積極的に応募して、多くのフランス生物学者を招聘してきた。学会誌の発行は2007年の47巻までが完了して、現在48巻を編集中である。例会は本年6月に169回を開催することができた。2006年6月の第165回例会には日仏会館総裁の常陸宮正仁親王のご臨席を賜り、出席会員とも親しくお話しを頂いた。これは学会の歴史の中でも特筆すべき出来事であった。
しかし近年、学会は会員の減少に悩み、またフランス生物学会との連携も薄くなり、かつての活発な活動がやや影を潜めた感がある。これは、日本における生物学者が必ずしもフランスとの交流から多くのものを得ることができないという基本的な問題があるであろう。若い研究者はフランスよりはアメリカに留学することが多く、そのことも若い会員が入会しないことの原因となっている。学会としては、フランス政府給費留学生を始め、フランスに留学経験のある若い方に入会を呼びかけるなどの活動を行っている。また本年には学会の一層の発展と活性化を模索するべく、将来計画委員会を設置して、新たな方向を探っているところである。

【3】長野泰一元会長の業績とフランス生物学

前述のように長野泰一教授は1976年から1987年まで、10年以上の長きにわっって日仏生物学会の会長を務められた。それ以前に長谷川秀二会長の下で総務幹事として学会の再建と発展に尽力されたこともすでに述べた。このように長野教授は、戦後の学会のもっとも重要な担い手であった。一方、専門分野では長野教授はインターフェロンの発見者として有名である。ここでは長野教授の業績と、長野教授がフランス生物学やフランスという国とどのようにつきあっておられたかを簡単に紹介したい。
長野教授は1906年に三重県で生まれ、北海道大学医学部を卒業後1936年から3年間Institut Pasteurで研鑽を積まれた。帰国後、東京大学助教授、教授となられ、長く伝染病研究所(現在の医科学研究所)で研究され、同研究所の所長等を歴任された。ご退官後は北里大学、国立相模原病院、林原研究所などにも関係され、1998年に逝去された。その業績に対して、野口英世記念医学賞、勲二等瑞宝章、フランス勲二等有功章、学士院賞、恩賜賞など多くの名誉ある賞、章を受けておられる。
長野教授の功績がインターフェロンの発見であることをすでに述べた。1954年にC. R. Soc. Biol. Fil. 誌にウイルスに感染した細胞が、抗ウイルス作用のあるタンパク質を産生することを疑問の余地無く示したのが、最初の報告である。長野教授はこの因子に「ウイルス抑制因子」と命名した 。この報告に遅れること2年、イギリスのIsaacsとLindenmannは同じウイルス干渉という現象を発見し、それに関わる因子にinterferonという名称を与えた。この用語がその後定着し、長野教授の「ウイルス抑制因子」は少し影が薄くなってしまった。しかし、インターフェロンの発見者としての長野教授の名前は長く医学生物学の歴史に残るものである。
筆者の手許には、長野教授が学士院賞・恩賜賞を受賞されたとき (1981) の読売新聞の記事「人間登場」の切り抜きがある。そこには、上に述べたような事情が紹介された後、おそらくは記者の感想と思われる「IF 、もしも-ウサギを使った免疫実験でみつけたウイルス増殖阻止物質に関する論文を、フランス語でなく英語で発表していたら-。また、もしその物質を「ウイルス抑制因子」などと堅苦しく呼ばなかったらー。」という文章がある。続けて、「フランス語を使う学者はやはり少ないんでねえ」という長野教授のことばが引用されている。これは、しばしばインターフェロンの発見がIsaacsとLindenmannにのみ帰せられることへの日本人としての率直な気持ちであろう。しかし筆者は、長野先生はフランス語の論文で最初の報告をしたことを、後悔してはおられないだろうと推察する。長野教授はその後も、日仏生物学会の例会においてインターフェロンに関する研究成果を次々と発表され、C. R. Soc. Biol.誌やC. R. Soc. Biol. Fil.誌に投稿を続けられた。
同じ新聞の記事に、長野教授の以下のことばもある。「パスツール(研究所)で得たもの?フランスは学問でも芸術でも独創を尊ぶが、その独創は古くさい伝統に一度どっぷりつかって、伝統をマスターしてからでないと生まれないということ。もう一つは他人の研究をよく追試することね。僕も最初の1年間は追試ばかりで、短い留学なのにと焦りもしたが、決してムダじゃありませんでした」フランスの学問の伝統を言い表した、含蓄の深い文章である。

【4】Nogentの発生生物学研究所と日本人研究者

パリの東端、Vincennesの森の中に、Collège de Franceの付属研究所として、発生生物学の研究所があった。最初はInstitut d’Embryologie Experimentale du CNRS et du Collège de France (CNRSおよびコレージュドフランス実験発生学研究所)として発足し、後にInstitut d’Embryologie Cellulaire et Moléculaire du CNRS et du Collège de France(CNRSおよびコレージュドフランス細胞分子発生学研究所)と改称された。この研究所はE. Wolff 教授、ついでN. M. Le Douarin教授(女性)が所長として率い、発生生物学、細胞生物学、神経生物学などの分野で大きな成果を上げた。ここには日本人研究者が多く滞在して研究し、優れた研究を行ったのみならず、日仏生物学の交流にも大きな役割を果たしたので、ここで紹介することにする。なお研究所はLe Douarin教授の退官後惜しまれながら閉館となり、現在は「東洋言語文明研究所」となっている。
この研究所を創設したWolff 教授は1904年にAuxerreに生まれ、Strasbourg大学卒業。戦時中はドイツ軍の捕虜になったという逸話もある。1955年以来Collège de Franceの教授として研究所を主催すると共に、Académie francaise 会員としてフランス科学界をリードした。その業績は多岐にわたるが、動物の発生や再生機構、腫瘍細胞の性質、生殖細胞の分化などの分野で他の追随を許さぬ独創的な成果を上げた。これらの成果の多くは、自らが開発した器官培養法(Wolff et Haffen法。生体の器官、臓器をできるだけその構築を維持したまま試験管内で培養する方法)によっている。Wolff教授の業績の多くは、よきパートナーであったEmilienne夫人との共同研究の結果であった。Wolff教授は1996年に逝去され、日仏生物学会誌36巻に水野会長の追悼文が掲載された(10)。
その後を継いだLe Douarin教授は、Wolff教授の弟子であり、若い頃から消化器の発生で重要な研究を行った。Nante大学の教授からCollège de Franceの教授となって赴任した(1975年)。筆者がこの研究所で研究を行ったのがまさにこの1975年であり、筆者はWolff教授の退官とLe Douarin教授の着任に立ち会ったことになる。Le Douarin教授は、消化器の研究の途上で、発生生物学ではモデル動物としてよく用いられるニワトリとウズラの細胞が、形態的に異なることを見つけ、ただちにこれが生物学的標識として利用できることに気づいた。そして、ウズラの胚の組織の一部をニワトリ胚に移植し、しばらくしてから宿主であるニワトリ胚の顕微鏡標本を作製し、移植したウズラ胚細胞の移動と分化を検討したのである。Le Douarin教授は、この実験系を、特に神経冠細胞という、胚の中で長い距離を移動して種々の細胞に分化する細胞の研究に応用し、誠にめざましい成果を上げた。このニワトリ−ウズラキメラを用いた研究の広がりについては彼女自身による総説 (11) を参照されたい。Le Douarin教授は、これらの業績により、国際発生生物学会会長を務め、またAcadémie des Sciences会員となり、日本の京都賞受賞など多くの栄誉に輝いた。現在なお活発な研究を続けておられる。
さて、このNogentの研究所には多くの日本人研究者が訪れ、Wolff教授やLe Douarin教授と共に研究を行った。筆者が知る限り、その人数はWolff教授時代に3人、Le Douarin教授時代に8人を数える。このうち6人は現在日仏生物学会の会長、幹事であり、この研究所と日仏生物学会がいかに密接な関係をもつかがうかがわれるであろう。先にものべたように、研究所自体は2005年に廃止となったが、それを惜しむ声は世界中の発生生物学者から上がり、ある国際的な発生生物学の雑誌はこの研究所に関する特集号を出版した。日仏生物学会誌でも2007年の47巻に、会員非会員あわせて8名がNogent研究所の思い出を綴った (12-19)。この研究所を軸とした日仏の生物学交流は、研究所がなくなった今後も、大きな広がりをもつであろうと考えている。

【5】日仏生物学会と日仏生物学交流の発展を願って

上にも述べたように、生物学の分野では、現在必ずしもその交流がきわめて活発であるとはいえないかも知れない。種々の情報検索が容易になった反面、英語が優先的になり、フランス語が科学の世界で主要な言語でなくなったことが一つの原因であるかも知れない。しかしフランスの科学、生物学は依然として健在であり、我々がそこから学ぶべきことも多いはずである。また現在では一方的にフランスから知識や技術を輸入するのではなく、むしろ多くの点で日本がリードしている分野もある。日本とフランスの生物学の交流は依然として両国の生物学の発展にとって寄与するところが大きいであろう。日仏生物学会がその仲介者として一層の役割を担うことができればと考えている。

【引用文献】
(1) 水野丈夫 (1992) 日仏生物学会設立60周年を迎えて. 日仏生物学会誌 32: 1-5.(仏訳同: 6-16)
(2) 長野泰一 (1992) 戦後の日仏生物学会.日仏生物学会誌 32: 22.(仏訳同:23-25)
(3) Ansart, O. (1992) Pour le 60ème anniversaire de la Socciété Franco-Japonaise de Biologie. 日仏生物学会誌 32: 18.(和訳同: 19)
(4) Polonovski, J. (1992) 日仏生物学会誌 32: 20.(仏訳同: 20)
(5) Chapeville, f. (1992) 日仏生物学会誌 32: 21.(仏訳同: 21)
(6) Mizuno, T. (1998) Adresses: En commemoration du 150e anniversaire de la creation de la société de Biologie. C. R. Soc. Biol. 192: 785-786.
(7) Fujiwara, K. (1998) Naissance et brève chronologie de la Société franco-japonaise de Biologie. C. R. Soc. Biol. 192: 787-788.
(8) Kishida, T. (1998) La Société franco-japonaise de Biologie depuis la guerre (creation des séances decentralisées). C. R. Soc. Biol. 192: 789-792.
(9) Jacob, F. (1998) Génétique et politique. C. R. Soc. Biol. 192: 803-811.
(10) 水野丈夫 (1996) 追悼 エティエンヌ・ヴォルフ先生の永逝を悼む.日仏生物学会誌 36: 36-37.
(11) Le Douarin, N. M. (2008) Developmental patterning deciphered in avian chimeras. Dev. Growth & Differ. 50, Suppl. 1: S11-S28.
(12) 水野丈夫 (2007) Etienne Wolff (1904-1996)と実験発生学研究所.日仏生物学会誌 47: 1-5.
(13) 八杉貞雄 (2007) Institut d’Embryologie とWolff教授の思い出.日仏生物学会誌 47: 6-8.
(14) 仲村春和 (2007) Ecole de Nogentとその一員として.日仏生物学会誌 47: 9-12.
(15) 絹谷政江 (2007) NogentでMme Nicole Le Douarinがくれた私の幸運.日仏生物学会誌 47: 13-16.
(16) 青山裕彦 (2007) 森の生活.日仏生物学会誌 47: 17-18.
(17) 浜崎浩子 (2007) Nogentで学んだこと. 日仏生物学会誌 47: 19-20.
(18) 勝部憲一 (2007) Nogentでの3年半を通して見たフランス人.日仏生物学会誌 47: 21-23.
(19) 渡邊裕二 (2007) Nogentでのベル・エポック.日仏生物学会誌 47: 24-25.

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